―施設見学―
■「シーパルピア女川」と
「ハマテラス」一帯を見学
■建築家のエゴを押しつけない
“わかりやすいデザイン”に
―東先生 特別講演―
■回遊性を高めながら、
人々の滞留を生み出す設計に
■賑やかな市場の雰囲気を演出する
デザインコントロール
■誰かの期待に応えるための準備を大切に
―女川町役場総務課公民連携室
青山貴博氏 特別講演―
■人口の約1割と、建物の約9割を失った女川町
■官民一体、公民連携による町づくり
■“海が見えること”を大事にする町づくり
■「シーパルピア女川」と「ハマテラス」の誕生
建築デザイン学部
東利恵先生と行く
女川震災
復興見学ツアー
学生交流プログラム
2024年8月1日(木)に学生交流プログラム「東利恵先生と行く女川震災復興見学ツアー」を開催しました。参加者は学生56名と教員12名、職員2名の総勢70名。東日本大震災で甚大な被害を受けた宮城県女川町の復興のシンボルである「シーパルピア女川」や「ハマテラス」の見学のほか、建設に至る経緯や設計上のこだわりなどについて、設計・建築を手がけた特別招聘教授の東利恵先生と、女川町役場の青山貴博氏による特別講演が行われました。ここでは施設見学の際にお聞きした内容と、東先生、青山氏の講演内容を紹介します。
建築デザイン学部
特別招聘教授 東利恵
日本女子大学家政学部住居学科卒業後、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修士課程修了、コーネル大学建築学科大学院修了。東 環境・建築研究所代表取締役。「星のや」をはじめとする宿泊施設のほか、個人住宅や集合住宅、商業施設など幅広く手がける。主な作品に「星のや軽井沢」「星のや富士」「星のや東京」「星のやバリ」「星野温泉 トンボの湯」「ハルニレテラス」など。主な出版物に『「塔の家」白書』(共著、住まいの図書館出版局)、『収納のデザインと工夫』(共著、彰国社)などがある。
施設見学
「シーパルピア女川」と
「ハマテラス」一帯を見学
ツアー当日、学生は午前10時前に仙台駅に集合し、バスで現地に移動しました。出迎えてくれたのは、女川町の復興に尽力された女川みらい創造株式会社の代表取締役・阿部喜英氏。「女川の復興は、住民が自由に意見を出し合った成果です」との説明を受けた後、東利恵先生が代表を務める東 環境・建築研究所の上村育美氏と坂井真紀子氏から、「シーパルピア女川」と「ハマテラス」についての説明を受けました。
「シーパルピア女川」は2015年開業。スーパーや薬局など、日常的な利用を目的としたゾーンと飲食店ゾーン、ワークショップやクラフト体験などができるゾーンが設けられました。また、翌2016年にオープンしたのが、「ハマテラス」です。屋根や外観を「シーパルピア女川」と共通のデザインとし、全体の一体感が生まれており、こちらは海産物の販売を中心に観光客をターゲットとする施設です。屋外のデッキ部分をステージに見立て、毎年7月の「おながわみなと祭り」や、10月の「おながわ秋の収穫祭」、通称「さんま祭り」などのイベントスペースとしても活用されています。
なお、現地は海岸線から離れた場所でも海が見えるように、緩やかな斜面上に建てられています。元旦の初日の出では、「シーパルピア女川」と「ハマテラス」を縦断するレンガ舗装の歩行者専用道路「レンガみち」に、一直線に朝陽が差す光景を目にすることもできます。
建築家のエゴを押しつけない
“わかりやすいデザイン”に
見学の際、学生たちは東先生から次のようなお話を聞くこともできました。
「『シーパルピア女川』と『ハマテラス』の敷地の傾斜は、『レンガみち』を軸にして斜めに中庭を設け、2つのエリアの連続性やつながり感を創出しました。また、斜面によって生まれる2mの高低差をどうやって建物に“吸収”させるかが課題でしたが、訪れる人には作り手の苦労を感じさせることなく、純粋に魅力を感じてもらえるように設計しました。あくまでも女川町の人々のための施設ですので、建築家のエゴが出ないよう、できるだけわかりやすく、ただし意味のあるデザインを重視しました」(東先生)
また「ハマテラス」の海側には、津波によって基礎の部分から倒壊した「旧女川交番」が震災遺構として展示されており、「建築を勉強している学生からすれば、いかに大きな力が加わったのかがわかると思います」と東先生。敷地内には津波で破壊された船舶のスクリューや錨も展示されていたほか、震災前の女川の歴史を伝える展示も見られました。
東先生特別講演
回遊性を高めながら、
人々の滞留を生み出す設計に
私が初めて女川町を訪れたのは、2014年8月27日。7mかさ上げされたJR女川駅の復旧工事が先行して進められる中、現在「シーパルピア女川」がある場所は造成工事の真っただ中であり、絶え間なく土が運び込まれていました。そして、このときが最初の顔合わせだったのですが、約2か月後にはデザイン案を出すようなスピード感でプロジェクトが動き始めました。当時の仮設商店街が2015年中に使用期限を迎えるため、新たな商業施設として「シーパルピア女川」を2015年12月にはオープンさせなければいけなかったのです。
女川町の場合は設計期間が短く、女川町と民間事業者の共同出資で設立された第3セクターの女川みらい創造株式会社が期限のある補助金を受けて進める計画でしたので、木造平屋建てでなければ難しいことはすぐにわかりました。木造ならば施工は半年程度で終わり、その分設計期間や見積もり調整の期間に多少の余裕が生まれるからです。そして、東北地方は大工さんの技術力が高いことで有名ですし、木材が豊富なため、地場産業を活用しやすいメリットもありました。
デザインで意識したのは、町に馴染む“やさしいデザイン”、どこか懐かしさを感じられるデザインです。その上で、施設を中心に町が広がっていくイメージで複数の路地を設けたほか、女川湾とJR女川駅をつなぐ軸線上には幅15m長さ170mの歩行者専用道路として、町の「レンガみち」が海に向かって計画されていました。「シーパルピア女川」では「レンガみち」で分断されたエリアをつなげるように斜めに中庭を設け、「レンガみち」と同じレンガ舗装とする案を考えました。これにより、2つの商業施設群につながりを持たせつつ、回遊性を高めようと考えたのです。さらには、人々の滞留を生み出すために軒下空間を設け、店舗のデッキの一部を「プロムナード」まで張り出させることで、官民のボーダーを消そうと考えました。
また、設計を行う上でシャッター商店街にはならないようにと考えました。滞在時間が短いことがシャッター商店街の特徴です。休憩できるスペースや子どもが遊べるスペースなど、人の居場所をつくらなければ通り過ぎるだけの場所になってしまいます。休憩用のベンチなどは、家具は地元・宮城県の家具工場の製品を使い、「復興のために」と格安で木曽の檜を提供してくださる方もいました。
賑やかな市場の雰囲気を演出する
デザインコントロール
通常の案件では、テナントに何をどこまで用意してもらうかは、ディベロッパーやリーシングを計画する側が提示するのですが、ここでは役場の方も女川みらい創造株式会社の方もその経験が無かったので、出店予定者向けの説明なども私たちがこれまでの経験に基づいて行いました。例えば、壁と天井は塗装やクロスを張る前段階まで建築側で用意し、床も仕上げまでは行わず、テナントの方に自由に仕上げてもらうということや、排煙窓の設置などの法規的な部分にも触れました。ですから、通常の設計業務に加えて、テナントのみなさんと向き合う機会も多くなり、特に「ハマテラス」では海産物を扱いますので、海水を引いて水槽に供給する設備など、さまざまなリクエストが寄せられました。
また、「ハマテラス」では屋外のテラスでさまざまなイベントが開催されることを想定。特に「さんま祭り」では床面に多くの油が落ちるため、滑りやすいタイルではなくアスファルトとしました。そして、屋内の各テナントはガラスや壁で仕切るのではなく、臨場感のあるオープンな店構えとし、固定された什器の通路側には、自由に集客ができる1.5m幅程度のプレゼンテーションエリアも設けました。テナントごとに使い方はさまざまですが、賑やかな市場の雰囲気を演出するようなデザインコントロールを行ったのです。
誰かの期待に応えるための
準備を大切に
建築家の普段の仕事の進め方とは勝手が違うとしても、そこに住む人々のために使命感を持って力を注ぐことの重要性を強く感じる仕事となりました。心強かったのは、役場の方から女川みらい創造株式会社の方、商工会の方まで、何か課題が見つかると、立場に関係なく対応策を検討してアクションを起こしてくれたことです。学生のみなさんも今後の長い人生において、国内外を問わずいろいろなことが起こり得ると思いますし、何か助力を求められたら精一杯応えられるような準備をしておいてほしいと思います。
また、日本の人口が減っていく中で、とりわけ地方都市は非常に厳しい局面を迎えています。“人口が減っても豊かに暮らす”とはどういうことなのかが今後の大きな課題になるでしょう。ぜひみなさんの世代が自分自身の問題としてしっかりと考えてほしいですし、女川で見聞きした経験を活かしていただければと思っています。
軒下は高くなり過ぎないよう約2.5mにしました。大型商業施設では3m以上が多いですが、ここでは住宅に近い低めの軒高を基本として、出入口部分は少し高くするなど、スペースやテナントに応じた設計を行いました。
商業施設群と歩行者専用道路の「レンガみち」を分離させないことと、デッキを人々の滞留を生む場所にすることを目的として、デッキが「レンガみち」の上にせり出すデザインにしました。厳密には、「レンガみち」は道路であり、警察の管轄ですので、建物の一部が出ていてはいけないのですが、“仮設なら置いていい”という条件つきで許可をもらっており、必要に応じて取り外すこともできます。こうしたスペースが3箇所あります。
全国のシャッター商店街を昔の姿に戻すことは、現実的に難しいと思います。シャッターが閉まったままで社会から必要とされなくなったエリアをどうしていくかが課題です。女川町の場合は商店街自体が必要だったため、新しくできる商店街をどう生かし続けるかが課題でした。例えば、広島県福山市では前田圭介さんという建築家が、“普通の道に戻して街路樹を植える”という活動を進め、昔からある商店街の場合は、アーケード商店街をなくした上での活用方法が考えられています。建築には「減築」という概念がありますが、「都市の減築」を考える必要もあると思います。
女川町役場総務課公民連携室
青山貴博氏 特別講演
人口の約1割と建物の
約9割を失った女川町
女川町はサンマの水揚げ、銀鮭やホタテ、牡蠣、ホヤの養殖など、古くから水産業の町として知られて、海と山に囲まれた狭いエリアに商店と住宅が密集する町でしたが、津波ですべてがなくなりました。死者・行方不明者は827人、当時の人口1万14人の8.3%です。津波で人口の約1割と建物の約9割を失い、被災率は全国でワースト。私も多くの親戚や友人を失いました。
震災後の復興において、他の地域では10年計画が多かった中、復興に時間がかかれば町外への人口流出が加速してしまう危惧があり、女川町は8年で復興させる計画を立てました。
官民一体、公民連携による町づくり
復旧・復興の道のりを通じて、「地方の新しい価値や可能性を生み出すこと」を目指しました。そのために「行政と民間が集まって、腹を割って話し合おう」と一般公募により約120人の住民によるワーキンググループをつくりました。
具体的な復興事業では、まずは山を削ることで海抜20mの高台に平場をつくり、そこを住民の居住エリアとしました。削った分の土で女川駅前の中心街区のかさ上げを行い、現在の「シーパルピア女川」と「ハマテラス」もできました。そして、この中心街区は居住禁止の災害危険区域に設定した上で、活発な経済活動を推奨し、地域のコミュニティの中心的な機能を持たせたいと考えました。
“海が見えること”を
大事にする町づくり
「ハマテラス」の海側にある道路は、震災前の唯一の幹線道路を復旧させたものです。ただし、100年に1度は高さ4.2mの津波が来ると想定されているため、海抜5.4mまでかさ上げされています。一方、女川駅前の道路は民間事業者が中心となり、動線の脆弱さを解消するために新たに作られました。
また、女川町では海岸にそびえ立つ防潮堤をつくっていません。津波ですべてが流されたとはいえ、私たちは海で育ち、海で仕事をして生きてきました。海と付き合っていくほかないからこそ、防潮堤を建てる必要はないと民間主導で考えたのです。こうして、防災というよりも減災の考え方に基づいた復興計画が採用され、女川町は津波被災地の中で唯一、防潮堤を持たない町となっています。
「シーパルピア女川」と
「ハマテラス」の誕生
駅前の中心街区の町づくりでは、100名程度の地域住民に参画して頂いたワーキンググループにて自由に感想や意見を出し合い構想を作り、その構想を具現化するために、町長と都市デザインの専門家2名、大学教員1名の4名、ワーキンググループのメンバー等の参加を得ながら、会議開催中のリアルタイムに闊達な意見交換をしながら、それを専門家の方が詳細な案へブラッシュアップしてくださいました。こうして完成した「シーパルピア女川」と「ハマテラス」は、女川町と民間事業者の共同出資で設立された女川みらい創造株式会社という第3セクターが女川町から土地を借りるという、土地の所有と店舗運営を切り離した形で運営しています。 震災前は1階が店舗、2階が生活拠点の住居兼店舗がほとんどで、店主が高齢化して後継者がいなくなると店舗のシャッターを閉めていきました。それゆえ、中心街区には個人所有の土地を設けず、町有地の上で民間が商業施設を管理・運営し、空き店舗が出ても運営側で措置ができるよう、各店舗にはテナントとして入居してもらっています。 これまでの取り組みは、「第5回復興設計賞」や2018年の「グッドデザイン賞」など、いくつもの受賞にもつながりました。公民連携に重きを置いた復興プロセスが、建築物の価値とともに高く評価されました。
住民には高台に移転してもらいましたが、震災から10年以上が経過して被災者が年齢を重ね、中心街区への買い物に困難を感じる高齢者が増えていることです。高台から降りてくるときはいいのですが、荷物を持って再び登ることが大変なため、町としては巡回バスの本数を増やすなどの対応をしています。
「女川でできたのだから、他の地域でもできる」と考えています。ただ、女川は牡鹿半島の端にあり、誰かを頼りたくても頼れない地域性や、自分たちのことは自分でするという気質が作用したようにも思います。常日頃から地域課題を自分事として捉えるのが女川の町民性です。また女川町の場合、当時の商工会長が「還暦以上は口を出すな。若いやつにやらせろ」という考えで、年長者が若い世代に託せる土壌をつくっていくことが大事だと思います。
まず、女川町の行政を担当する公務員は、保育士や学校教員を含めて、震災当時も現在も160人程度です。このうち、建設系をはじめとした深い部分の復興事業に携わったのは4分の1程度でした。一方、民間側もマンパワーが十分とはいえず、女川みらい創造株式会社も、実は石巻市の方に専務になってもらいました。加えて、阪神淡路大震災を機に結成された被災自治体による支援組織体などからも助言をいただきました。ですから、公民連携を推進しつつも、復興事業は女川の住民だけでできたことではなく、多くの方々に支えられて進められたということです。
学生の声
4年生より
私は江尻先生の研究室に所属していて、今回の女川のほか、能登半島地震の被災地である石川県の七尾市にも研究室の活動で何度か訪れています。現地に行き、さらには地元の方からお話を聞くと、それまでニュースなどで見聞きして知ったつもりになっていた情報の現実味が一気に高まりますし、実際に行くからこそわかることが少なからずあると感じています。また、江尻先生が構造設計を担当している案件の打ち合わせに同席させてもらう機会もあり、行政や他の事業者との一体感という点で私なりに“思うところ”があった中で、今回の女川では、公民連携の大切さを実感できました
4年生より
初めて震災の現場を訪れました。復興によって“元に戻す”というよりも、過去に思いをはせながらも、新たな価値を創造していこうとする地元の方々の強い思いを感じました。
4年生より
「シーパルピア女川」も「ハマテラス」も誕生から約10年が経過し、新たな問題が生まれつつある中で、次の10年に向けてどのような対策が進められ、どのような新たな魅力が生み出されていくのか、引き続き注目していきたいと思いました。
3年生より
旧女川交番が基礎から折れていたのが衝撃的で、津波の破壊力は想像を絶する大きさだったのだろうと思いました。普段は崩壊した建築は目にしませんので、貴重な機会をつくってもらえて本当によかったです。
教員の声
建築デザイン学部
特別招聘教授 東利恵
女川は個人で来るにしては遠方で大変ですが、復興に向けたさまざまな視点を学んでもらうためにも、ぜひ学生たちと一緒に来たいと思っていました。どのような思いや条件のもと、どのような課題を解決しながら、どのようなプロセスで建築が進められたのかについて、青山さんや私など、関係者の生の声を聞いて考えてほしいと考えたのです。住宅は住む人が良しとすればいいのですが、商業施設は使い手の気持ち、訪れる人の思いを想像しながら設計して建築する必要があり、多角的なアプローチで臨機応変に対応しなければなりません。みなさんには建築の多様な側面を知った上で、自分に合う方法を見つけてほしいと思いますし、今回はその1つの側面を知る機会になったと思います。また、復興というのは、10年では終わりませんので、ぜひまた女川を訪れてほしいですし、大都市圏とは違う地方都市が抱える問題についても、みなさんには考えてほしいと思っています。
建築デザイン学部
学部長 佐藤克志
私は常日頃から学生に向けて、教室で勉強するだけではなく、実際に町を歩いて建築物を見て、できれば地元の人々と話をしてほしいと伝えてきました。今回はこの思いが学部のプログラムとして初めて実現した機会となりました。学生には、今後さまざまな地域で人的な交流を深めていくきっかけにしてほしいと考えています。建築デザイン学部がキャッチフレーズとして掲げている「建築でかなえられることのすべてを。」につながる内容でしたので、次年度以降もこうした企画を継続させていきたいです。
建築デザイン学部
教授 江尻憲泰
私は構造設計の立場でいろいろな建築家と一緒に仕事をしていますが、東先生のお話をお聞きして、多様な課題に向き合い、店舗や顧客など関係する人たちに寄り添いながらアイデアを出されていることがわかり、大きな安心感を覚えました。自己主張するのではなく、しっかりとつくられているからこそ、これだけ評価されているのだと思いました。また、青山さんからも貴重なお話をお聞きできました。私は学生と一緒に石川県七尾市で能登半島地震からの復旧活動に参加していますが、女川町の手法は参考になると思いますし、参考にしなければいけないとさえ感じました。