「胎児にモーツァルトを聴かせると天才になる」は、ウソ。
発達心理学の専門家として、主に子どもの音声言語の獲得について研究しています。これまでは特に、人の言語獲得において重要な時期といわれている乳幼児の研究に力を入れてきました。その研究手法とは、とにかく実験をして、事実に即した客観的なデータを収集することです。
「心理学なのにデータ?」と思われた方も多いかもしれません。心理学には、カウンセリングなどの対人支援に関わるような臨床心理学だけでなく、人間の行動原理を実験したり計測したりすることで解明していく基礎心理学があって、私は後者の人間です。心理学とは心の理学。つまりはサイエンスですから、憶測ではなく理論と検証をもって真実を解き明かそうとする学問にほかなりません。
データを大切にするのは、事実とは異なる主観的な思い込みで物事を間違って理解しないためです。ひいては、さまざまな課題の背景を正確に分析し、解決に向かえるようになる力をつけるためと考えています。
赤ちゃんが世界をどうとらえているかを知らなければ、どう発達を支援するべきかわからないですし、よかれと思ってとった行動が実はまったく意味がない、ということもありえるのです。たとえば「胎児にモーツァルトを聴かせると天才になる」は、典型的な例です。この話は学生も聞いたことがあるので、これを証明する科学的な裏付けはどこにも存在しないこと、それにもかかわらずなぜ誤った理解が広まったかの過程を伝えると、「そういうことか」とデータの大切さを理解してくれます。特に子育てのあり方は、子どものその後の発達への影響を考えても、より慎重な姿勢が求められると言えるでしょう。世の中に子育て情報はたくさんありますが、内容をよく吟味して、批判的に考える力がとても大切だと思います。
ただ、データ「だけ」を盲信するのもよくありません。いくらデータが示すからといって、すべての子どもが「こうすればこう育つ」などとは言い切れないのです。子どもにも親にもそれぞれに個性があり、子どもはマニュアルに従って育てれば思い通りに仕上がる工業製品ではないのです。それに、子育てには親の接し方だけでなく、子どもを取り巻く環境や人間関係、それに伴う感情の動き方などさまざまな要素が複雑に絡み合っています。信頼性のあるデータを活用しながらも、多角的に物事を見る姿勢、そして個性と感情を持つ「人」を研究の対象にしているということも常に忘れずにいたいところです。
能力を失うことも、発達です。
そもそも赤ちゃんを理解するには、発達を理解する必要があります。先のモーツァルトの話は間違いですが、赤ちゃんはお母さんのお腹の中で外の音を聞いているのは事実です。赤ちゃんの聴覚は妊娠期間の2/3を過ぎた頃から、触覚はもっと早い時期から働き始めます。音は振動で伝わりますから、実は聴覚が働き始める前から“聞こえている”のかもしれません。そのため、言語の発達は胎児期から始まると考えられています。実際に胎児の間に聴覚で学習している証明として、生まれてすぐの赤ちゃんは、お母さんの声や自分の母語の特徴を聞き分け、注意を向けることができます。
出生後の発達は、ゼロの状態から始まるのではなく、ある程度の能力を備えた段階からスタートし、環境に合わせて必要な力を身に着けたり逆に失ったりすることで周囲に適応していくことを指します。たとえば、日本で育つ赤ちゃんにとっては、英語圏の発音の差異は聞き取る必要性がないので「L」と「R」の聞き分けなどは「この環境では不要」であり、少しずつその能力を捨てていくのです。逆に、日本語の獲得に必要な音の聞き分けに関しては感度を高めていきます。つまり赤ちゃんは、自分の育つ環境に柔軟に適応する過程でいろいろなことを取捨選択していて、そんな変化も立派な発達の一部なのです。
雨と飴、違いがわかるのは何歳から?
私はこれまで、数百人を超える子どもたちに実験に協力してもらい、言語獲得におけるデータを収集してきました。子どもたちにさまざまな音を聞いてもらい、どの年齢でどんな音を聞き分けられるのか、それが言語、特に日本語の発達とどう関係しているのかを研究するためです。
たとえば日本語では、促音「っ」や、雨と飴などのアクセントの違い、ちず(地図)とチーズのような「ー」で表される長音の聞き取りが必要になるのですが、それを赤ちゃんで検証してきました。音の聞き分けの実験では、格子模様のような退屈な映像をモニターで見せながら、同時に特定の音を流します。赤ちゃんは次第に飽きてきて、視線を逸らすようになります。そうしたら音を変えてみます。このとき、音の変化に伴うモニターへの注意の回復度合いを計測します。一定の人数の赤ちゃんをテストして、統計的な基準を満たすほど注意が回復したら、音の違いを聞き分けているといえます。このように実測データを蓄積し、統計処理することで、この月齢ならこの音の聞き分けができる、単語を学習できる、こんな音は獲得が難しい、といったことがわかるのです。
学生の将来のパートナーも、子育てに前向きになれるように。
最近は研究の視野をもっと広げたいと考えていて、親子間のコミュニケーションに着目して、親子の関係性や情緒的な絆がどのように形成されていくのかも研究しています。言うなれば、親子関係をデータで可視化する活動ですね。一例としては、母親が赤ちゃんをあやしているときの2人の心拍を計測したり、子育てに関係するオキシトシンと呼ばれるホルモンの数値を見たりして、親子のコミュニケーションがもたらす心理的、生理的な変化を検証しているところです。
この手の研究は、父親も含めて行うことが大事だと思います。近年の子育て環境は夫婦と子どもの核家族で行われる場合がほとんどです。そうであれば、父親と子、父親と母親の関係性も理解しなければ本当のことが見えてこないですよね。加えて、学生からは最近「将来のパートナーが子育てに前向きでなかったらどうしよう」という不安の声も多く聞かれるようになりました。共働き家庭が増えてきたこともあり、彼女たちが心配するのも無理はありません。たしかにこれまでは、「子育ては母親がするもの」というイメージがあって、社会全体がこの前提にたって、制度やシステムを作ってきたように思います。でも、近頃はそのイメージが変化して、父親が子育てに参加するのは当たり前という意識や、実際に参加しやすい風潮が少しずつ育っていると感じています。私の研究も、そんな子育て社会におけるジェンダー平等実現の一助になれば幸いです。
その先の展望として、子どもや子育てに関わる社会的課題の解決につながることができればと考えています。幼いころの出来事は「どうせ覚えてないから」と軽く考えてしまう親もいるのかもしれません。しかし実際には、虐待のような不適切な養育がその後の発達に影響することは、多くの研究から指摘されています。子どもは思い通りにいかないことも多いですし、どうしても感情的になってしまうことがあると思います。だからこそ、子育てに関する科学的なデータを提供することで、親や周囲の大人が冷静に客観的に状況をとらえ、判断するための手助けができればと考えています。
心理学は、ビジネスにも強い。
心理学は、非常に裾野が広い分野です。最初にお伝えした基礎心理学や臨床心理学をはじめとして、人の営みすべてに関係し、人である以上は必ず関わりがある学問が心理学だとも言えるでしょう。心理学の知識は社会に幅広く役立つものですし、その証拠に心理学科の卒業生の就職先は一般企業も多く、マーケティングやデザイン、データサイエンスといった専門分野にもニーズがあります。
ビジネスで活躍するためにも、やはりデータを見るクセを大学時代に身につけておくことはとても有意義だと思います。心理学自体を学ぶうえで大切なのはもちろん、ビジネスではデータにもとづく客観的な情報を元にした説明や展開が求められるので、将来のためにもなるでしょう。一方で、人の心を大きく動かすのはデータよりも感情である、という側面もあります。この感情もまた、心理学で扱う対象なのです。
近年、発達とは「受胎から死まで」の期間で起こる生涯の変化を意味するものとしてとらえられるようになりました。この生涯発達の観点から言えば、高校生や大学生は長い人生の序盤であり、入り口を少し入ったくらいかもしれません。皆さんはこれからまだまだ発達、つまり変化します。この先どんな変化が起きたとしても、人に対する深い理解と客観的なデータにもとづいて科学的な思考を求める心理学科での学びは、これからの時代を強く生きていくためのひとつのヒントになるのではないでしょうか。