「食と栄養」こそ、医療系科学者が挑む最後の難関かもしれません。

内科医時代に「全身を診なさい」と教えられたことが衝撃だった。

食と健康について、2つの異なるアプローチで研究しています。1つは、国から提供された健康に関するビッグデータを解析する研究。もう1つは、唾液に含まれる消化酵素「唾液アミラーゼ」の研究です。このような領域を専門にするとは、高校生の頃までは想像もつきませんでした。将来を考えたときに、会社でサラリーマンをする自分がイメージできず、国語が苦手で数学と物理が好きだった私は、ひとまず理系で進路を考えます。漠然と町医者のような働き方ならできそうだと考え、医師をめざしました。3兄弟の末っ子であったためもあり学費がかからない防衛医科大学校に進むことになりました。
大学校を卒業後、防衛省で内科医として働き始めた私は「全身を診なさい」と教える先生に出会います。臓器別に診ることが基本だと考えていた私にとっては、衝撃的な考え方でした。その先生は特に栄養に強い関心を持っていました。動脈硬化や糖尿病の患者を多く診ていた先生にとって、食と健康の関係は、切っても切り離せないものだったと想像できます。栄養は、特定の臓器というより全身に長い期間作用することが多いのです。その影響で私も栄養学に少しずつ惹かれていき、いつしか食や栄養からのアプローチで人々の健康に寄与するための研究がしたい、と考えるようになっていったのです。開業医になることも少しだけよぎりましたが、妻から「あなたは経営者に向いていない!」と言われ、自覚もあったことから、研究者の道を選びました(笑)。
最初に転職した大学では、薬学部で栄養の研究をしました。新しい研究対象を検討していたところ、知人から「健康診断のデータを使ってみないか」と声をかけられ、挑戦することにしたのです。わずか数千人のデータではありましたが、病気や健康状態、とくに体重の特徴(肥満と痩せ)との関係を数値化していくと、これが面白い。この研究のなかで糖尿病と血清アミラーゼの関連性に着目したことをきっかけに、現在唾液アミラーゼを研究するに至っています。また、もっと多くのデータがあれば、年齢や性別、背景にある病気の有無などに分けて、きっと一人ひとりに合った健康の支え方(個別化医療)を見つけられると考え、徐々に扱う数が増加。今では厚生労働省から提供される大規模なデータ、すなわちビッグデータを扱うようになりました。そのため、ビックデータはビックデータとして解析終了ということではありません。年齢・性別・病気の有無などで多数の群に分けて解析を行う予定です。

生活改善に億劫な人も、取り組むべき優先順位があれば救える。

現在、ビッグデータ解析の研究では、関東圏に住む40-74歳の約1,000万人/年度を対象とした特定健康診断の結果に加え、罹患している病名や処方された薬までが記録されたデータを扱っています。この研究の大きな目的のひとつは、影響力のある健康リスクを序列化すること。つまり、ある病気になるリスクを下げるために最も有効なのはこの手段、2番目はこれ、3番目は……のような、優先順位を設けたいと考えているのです。例えば、生活習慣病。現在これを予防するとなると、医者から「塩分を控えなさい」「適度に運動しなさい」「酒やタバコはやめなさい」、「薬をちゃんと飲んで」「あっ、それから痩せなさい、野菜も多く食べてね、食物繊維も多く」、「そうそう、よく噛んで食事も3食きちんととって、遅い夕食は……」などとたくさん言われがちです。でも、すべてを実行するのは簡単ではありません。途中で嫌になってしまう人だっているでしょう。でも取り組むべきことの優先順位がわかっていれば、医者は順序立って合理的な助言ができますし、改善に消極的な人も「とりあえず一番効くものはやってみようかな」と、取り組む姿勢によい影響があるはずだと考えているのです。
ビッグデータでは例えば「高血圧」を検索すれば、高血圧の人が併発している病気や飲んでいる薬などを、人数順で把握することができます。もし高血圧の人が同時に罹りやすい病気、生活習慣などを予め知っていれば、その病気にならないように気をつけられますよね。直近では、鼻炎、頭痛、感染(風邪、コロナも)、腰痛や便秘と、それらの治療薬といったこれまで医療従事者に見逃されがちだった身近な症状や薬が、実はさまざまな病気につながっている可能性があることもわかってきました。こうした細かな項目を年代・性別に健康リスクとして優先順位がつけられるようなれば、医者は「40台前半の女性で大きな病気のないあなたの場合は、まずここから取り組みましょう」とわかりやすく助言できます。助言された人も「この順番で気をつければいいんだな」と、健康のために優先すべきことをランキング形式で理解でき、より効果的なものから取り組めるようになるのです。扱うのは働き盛りの人々のデータですから、当然その世代の健康に、少なくとも年代・性別を考慮して、より貢献できますし、社会に活力を与えることにも通じていると考えています。

取り扱っているビッグデータ

「お米をたくさん食べても太りにくい人」のからくりがここに。

アミラーゼは、人類の主食となるお米や麦、イモ類に含まれるデンプンを分解し、消化吸収を助ける酵素です。膵臓から出るアミラーゼも存在しますが、私が主に研究しているのは唾液に含まれる唾液アミラーゼです。唾液アミラーゼは、穀類を食べる民族で進化とともに、その量が遺伝子を介して増加してきました(共進化)。とくにお米を主食とする日本人は、唾液アミラーゼ遺伝子が多く発現しており唾液アミラーゼ活性が高いと報告されています。私がここに注目するのは、この消化の仕組みが肥満や糖尿病などの健康リスクに大きく関わるためです。大きなポイントのひとつが、唾液アミラーゼの量は人によって大きな差があること。膵臓のアミラーゼにはほとんど個人差はありませんが、唾液アミラーゼ、とくにその遺伝子には大きな個人差が日本人の中にもあります。口の中で唾液アミラーゼによりデンプンが分解され甘みを感じると、その情報は瞬時に脳と消化管、膵臓へと伝わり、スムーズに糖の消化吸収と代謝をするための準備が始まります。しかし、唾液アミラーゼが少ない人の場合、この情報伝達力が弱く、満腹感を得にくく食べ過ぎてしまったり、食後血糖が上昇したままになります。実際に唾液アミラーゼが少ない人は、多い人に比べて肥満や糖尿病のリスクが高いと論文でも示されているのです。「よく噛んで食べなさい」という昔からの教えは、唾液アミラーゼの働きを考えると、理にかなった知恵だと言えるでしょう。
少し前、お米などの食べる量を制限する「糖質制限ダイエット」が流行しました。でも唾液アミラーゼの個人差を知っていれば、お米を食べると太りやすい人もいれば、逆に太りにくい人もいることがわかると思います。唾液アミラーゼを見ただけでもわかるように、適した食のあり方は、人によって異なるのです。この研究は、人々が自分自身の体質を知り、自分に合った健康的な食を、科学的根拠に基づいて選べる未来へつながっているのです。

アミラーゼについての説明資料より

私と逆の意見を出した学生に、思い込みを正してもらえた。

研究室では、教科書通りの理屈ではない日常の「リアル」を重視するよう学生に伝えています。例えば糖質負荷後の血糖値の測定。病院では、ブドウ糖液を飲んで血糖値を測りますが、普通そういうものを食事としている人はいません。また、嚙むことや唾液アミラーゼも全く関与しません。そのため私の研究室では、お米を150g食べたらどうなるかなど、より現実に即した血糖の代謝をみてています。それに、体の反応は噛む回数や食べ合わせ、ライフスタイルやストレスの状態によっても変わります。だからこそ学生には、その人が普段どんな生活をしているのかも見えるような研究をしてもらっています。この研究を通じて、自分の血糖値の上がり方を知り、お米を食べたら太るという思い込みから解放された学生もいます。「自分の血糖値はこの程度の上昇で済むんだ」と安心し、以前ほど量を気にすることなくお米を食べられるようになったそうです。
逆に、偶然ではありますが私の思い込みを指摘することになった学生もいました。以前、ある唾液アミラーゼに関するデータから原因を探る場面で、私は「遺伝の影響が大きい」と考えていました。ところが学生からは「生活習慣が原因だと思います」と意見が出たのです。これは、唾液アミラーゼの遺伝の影響をまだ知らない学生だからこその発想でした。事実としては、どちらも正解の可能性があります。私は、長年の研究から、遺伝にこだわっていました。学生の意見を時間をかけてじっくり聞いてみる。出てきた意見を「その可能性もあるかもしれない」と考えてみる。そんな姿勢が、研究における新しい発見を導いてくれるのです。これは私だけでなく、学生にも身につけてほしいと思い、日々の指導に取り入れています。

学生との研究の様子

太古の昔から続く「食」の仕組みを紐解く鍵は、細かい解析を得意とするITとAI。

個人の食に関するデータ解析は、他の分野に比べて攻略されている部分が圧倒的に少ないです。私は食を、科学的な研究における「最後の砦」だと考えています。個人が普段とっている食事は直接測定・計測できず、また46時中観察できないということが、食の研究が大幅に遅れている理由の一つです。さらに、「食」の情報の多様さもあります。例えば、健診での身体・血液・尿検査の項目は、およそ20-30。対して食は、食材(食品)の種類だけで約2000、栄養素の数は50-60、合わせて一人あたり2000×50もの膨大な項目が絡み合うのです。さらに調理の仕方も影響し、カレーライスひとつとっても肉や野菜など具材の組み合わせと調理法は無限で、薬のように成分がミリグラム単位で決まっている訳でもありません。また食べる人の体質や体調によっても消化・吸収が変わるため、人体へ入る正確な栄養素の質と量の把握が極めて難しいのです。
これまでは、その複雑さゆえに食や栄養の大規模データ研究を諦めていた人も多かったかもしれません。しかし今、ITの発達によって研究の土台がようやく整い始めました。膨大な量のデータ解析は、昨今話題のAIが最も得意とするところですから。今こそ、未来を担う研究者の卵の皆さんには、臆せずこの扉を叩いてほしいと願っています。例えば「朝食欠食すると全員太るのか?」、「飲酒は少量なら皆によいのか?」、「長生きするちょい太りって、どのくらい?」、という最近でもまだよくわかっていないことを、ようやく科学的に解き明かすことができる時代が、訪れようとしているのです。薬を飲まずに生きていける人はいても、食事をせずに生きていける人はいません。太古の昔から続くこの営みを、最先端の技術で紐解いていく。なんともロマンのある話だと思いませんか?

主なSDGsへの取り組み

  • 3.すべての人に健康と福祉を

    唾液アミラーゼの個人差に着目し、人それぞれに合う食事、合わない食事があることを示すことで、すべての人が自身の体質に適した健康的な食事を選べる世界をめざしている。

  • 8.働きがいも経済成長も

    働く世代のデータを素材として健康に関する研究をすることで、その世代の人々がより活力を持って働き続けるための健康維持に貢献し、経済成長を促している。

  • 9.産業と技術革新の基盤をつくろう

    ビッグデータ解析による健康リスクの序列化をめざすことで、医療や健康増進の分野における新しい指針の構築を進めている。

  • 17.パートナーシップで目標を達成しよう

    行政や企業などと連携し、膨大なデータ解析の結果を社会実装することで社会全体の健康増進へと役立てる計画を進めている。

関連する取り組み

一覧はこちら