物語の悪役って、意外と魅力的ではありませんか?
20世紀以降の英文学が専門です。政治、戦争、核兵器など、この時代におけるさまざまな問題を、イギリスや英語圏の作家が小説などの物語のなかでどのように表現してきたのかを研究しています。小学生の頃から読書が好きで、私の文学への興味はそのあたりが出発点です。家にゲームなど他の娯楽がほとんどなく、テレビも好きではなかったので、時間があるときは家にあった本を手に取っていました。中学生くらいからは、世界中の名作と呼ばれる本をたくさん読みました。英文学には名作が多いので、その頃に出会った作品が研究対象になることもよくあります。また学業では、英語が得意で理数系がまるでできない、典型的な文系の人間でした。文学と英語という2つの強みから、大学は英文学を専攻。ある程度英語ができれば仕事に困ることはないだろうと、打算的に考えた部分も少しだけありました。ただ大学に入ると、まわりには自分よりもできる人ばかり。私は進学校出身ではなかったですし、いわゆるエリート的な学友への劣等感は小さくありませんでした。将来に関しても、自分が企業で働いている姿はまるで想像できず、この頃は常に頭のどこかに不安が巡っていました。
それでも、小説を読み、研究することだけは迷いなく取り組み続けました。英文学はそもそも19世紀に名作が多いのですが、私は20世紀の作品により強く惹かれました。きっかけは、大学時代に研究した作家ウィリアム・ゴールディングです。彼の代表作『蝿の王」は、少年たちが不時着した無人島で協力し合いながら暮らすなか、最後は殺し合いに発展してしまう物語です。独裁者のように振る舞う明らかな悪役も出てくるのですが、そこがまた面白く思えたポイントのひとつでした。悪役がなぜか魅力的に見えてしまうことってありますよね。そしてより興味深かったのは、殺し合いをする少年たちがイギリスの白人として描かれていた点でした。それまでの英文学にあった数々の児童文学や冒険小説は、ほぼすべての作品が偉大なイギリス帝国を象徴するような理想の子どもを描いていました。それが本作では、まるでナチスのような野蛮な殺戮を行っており、イメージを大きく覆したのです。ゴールディングは「悪はどこにでも存在し、誰であっても悪に転じることはあり得る」といった言葉を残しています。第二次大戦にも従軍し、数多くの惨劇に見舞われた時代を生きていた彼の言葉には説得力があり、そんな背景が小説へ与えた影響を想像すると、物語は一層面白さを増しました。特に20世紀以降の多くの小説からは、さまざまな世界情勢が反映されていることが読み取れたのです。私は幼い頃から幅広いジャンルの本を読んでいたので、文学だけでなく、哲学や歴史、政治など文学以外の分野にも興味があり、この読み方が私に合っていることも感じました。自然と研究に熱が入り、次第に研究者への道を意識するようになっていきました。大学院に進み、本場イギリスにも3年ほど留学。2019年に帰国し、いろいろなご縁がありその翌年に本学への赴任が決まりました。
海外研修先のオックスフォードでの様子
「羽の生えた女性の活躍」は、ジェンダー平等をめざした作家のメッセージ。
1979年、サッチャーがイギリス史上初の女性首相になりました。国のリーダーが女性ともなれば、それまで国内に根付いていた男性優位の慣習が弱体化され、女性の生きにくさは解消されていくように思えます。ところが、サッチャーはその領域に特に関心を示さないどころか、逆に女性やその他マイノリティたちの声を抑圧するかのように振る舞ったのです。結果、イギリス国内では女性たちによる不平不満の声が日増しに高まっていきます。そんななか、女性作家アンジェラ・カーターによる小説『夜ごとのサーカス」は執筆、出版されました。19世紀の末、背中に羽の生えた女性がサーカスで活躍し、希望に満ちた20世紀へと向かって成長していくというストーリーです。羽の生えた、つまり普通の人ではなくても、女性であっても、誰もが社会に進出して輝くことができる、ついにそんな時代が来たんだという、作者にとっての理想の世界が読み取れます。一方で現実は、サッチャーの就任当初はそんな期待感が世間に満ちていたのですが、実際にはそんな時代は訪れなかった。すなわちこの小説は、サッチャー政権への痛烈な皮肉を込めた作品として受け止めることができるのです。
文学は歴史的な背景を照らし合わせて読むとまた別の視点から楽しめますし、作家が密かに込めたメッセージに気づくこともあるでしょう。実際にアンジェラ・カーターが込めたジェンダー平等のメッセージに共感する人、言ってしまえば心を救われた人も多くいたはずです。小説はただ物語を楽しむものではなく、人を救うツールになり得ることもあるのです。
独裁者の物語を読むことが、身近な悪の改善につながる。
ここ数年は、特に独裁者が登場する小説の研究に力を入れています。独裁者はわかりやすく悪として描かれるのですが、私自身も感じた通り、物語に登場する悪役は意外と人気があります。したがって、独裁者のような明確な悪が登場する物語は、昔から多く存在しているのです。なかでも20世紀以降に注目すると、実在する人物をモデルにしたような独裁者が数多く登場します。先に紹介した『蝿の王」には、子どもたちが殺し合うなかでカリスマ的な悪のリーダーが出てきますが、その人物の言動はまさにヒトラーのそれです。ジョージ・オーウェルの『一九八四年」は、スターリン時代の独裁的な監視社会がイメージされます。アフリカのウガンダには、イディ・アミンという独裁的な大統領を模倣したであろうキャラクターが、なんと動物として登場する小説が存在します。作家によって実在人物との類似性はさまざまですが、どれも書かれた時代や作家のプロフィールなどを知ると、容易にモデルが見えてくるものです。
独裁者を描くことは、同時にそれに対して人々がどう抵抗するのかを描くことでもあります。現実世界で独裁者に抵抗しようものなら、国によっては命だって狙われかねないでしょう。しかし小説でなら、実際には発するのが難しい批判的なメッセージを比喩的に語ることができるのです。エンターテインメント性を高めることで、より多くの人に伝えられる点も見逃せません。例えばウガンダの国内事情は、日本人にとっては遠い国の話に感じてしまいますよね。ところがそこに「動物の世界」というフィクションが加わるだけで、私たちを含めた多くの人々も面白い話として受け入れられやすくなるのです。
物語に登場する多くの独裁者は、もともとは世の中をよくしようという志を持っています。それがどこからか歯車が狂い、なぜか間違った方向へと進んでしまう……そんなストーリーがある種の定番であり、実は、実在する独裁者もまさにそのような生い立ちを持つ者ばかりなのです。独裁者が生まれてしまう過程を知ることで、なぜ世の中から独裁やそれに伴う差別や不平等がなくならないのかの一因を知ることができますし、その解決策を考えるきっかけを与えてくれます。それは国のような大きな規模だけではなく、学校内でのいじめや暴力など、身近なところにも通じる話と言えます。身のまわりの独裁的な悪を改善するための糸口として、小説が役立つ可能性もあるのです。
リスボン大学での講演の様子
2025年の講演で訪れたリスボン大学
昔のSF小説の監視社会と、現代のSNSは同じ?
私の授業では、小説の内容や歴史を語るとともに、その時代の歴史的背景もたどるようにしています。特に独裁や不平等などが背景にある物語は血生臭い表現が多く、学生たちは敬遠しがちです。ただ、先に紹介したジョージ・オーウェルの『一九八四年」には、いい反応を示す学生が多い印象です。物語には「テレスクリーン」というテレビと監視カメラを兼ねたような装置が登場します。各家庭にあり、常に政府に都合のいい情報が流され、こちらは監視されている状態にあるのです。これを知ると多くの学生たちは、まるで自分たちにとってのSNSのような存在だとの感想を口々に述べます。頻繁にSNSを利用する学生にとっては、SNSは誰かの生活を監視し、また監視されるかのような感覚があると言うのです。インターネットが普及するずっと前の時代の小説が、現代のネット社会の様相に結び付けられたことは、私にとっても意外な発見でした。
授業の感想を、高校までの国語のように作家の意図を読み解くような授業だと思っていた、とする学生も多くいます。私は授業で、小説をはじめとした文学作品は、あらゆる解釈にひらかれていることを重要なポイントとして伝えています。歴史や哲学、政治、経済、時には自分の身のまわりのことなど、さまざまな視点を用いた読み方が可能です。そんな主体的な読み方から得られた考えや価値観は、間違いなくその人の財産になります。小説を読む行為は、実はとてもクリエイティブで、能動的です。ただ「面白かった」で終わるのではなく「明日からこうしてみよう」と思えることだってあるのです。フィクションは決して現実からかけ離れたものではなく、むしろ現実をよりよく生きるためのヒントが得られるものであることを、学生たちには知ってほしいと思っています。
文学を守ることは、人々の生きる希望を守ること。
いち教員として、多様な考え方にふれることの大切さは、常に伝えていきたいと思っています。ノーベル文学賞作家のカズオ・イシグロはあるインタビューで次のように話しています。「多様性を尊重するリベラルな人は、世界中でさまざまな人と交流しているように見えて、実は似たような考えの人にしか会っていない。多様性を語るには、バックグラウンドなどが異なる人など、本当の意味で多様な人の声に耳を傾けるべきだ」のような趣旨でした。これを私たちに置き換えれば、親しい友人など似たような考え方の人間とばかり交流していませんか?ということです。このような状態が続くと、いつの間にか思考が偏りがちになり、場合によっては過激な方向へと進むことになってしまうかもしれないのです。独裁者も然り、私が思うに、思考が偏ることにポジティブな要素はありません。ネット通販やSNSもそうです。いつも「あなたへのおすすめ」ばかりの画面を見ていませんか?本学の学生であれば、普段あまり話さない学生や教員と意見を交わすことなどは、とても豊かな思考をもたらしてくれることでしょう。
これは文学にも通じていて、同じ作家の本ばかりを読むのではなく、いろいろな作家、ジャンルの本にふれることをおすすめします。文学における多様性のレベルは高く、作家のなかには犯罪者やその被害者だっていますし、内容も現実の世界では言えないこと、教科書では書けないことであふれています。たとえば、いじめられている人の切実な思いや心の叫びは、現実ではなかなか発せられるものではありません。でも小説であれば、フィクションとしてそんなシーンの心情を描くことができます。同じ境遇なら、それを読んで救われる人もいるでしょうし、人生に希望を見出す人もいるでしょう。問題解決への貢献を考えても、表現の自由が担保されている「文学」という学問を守る価値は高いと思えます。微力ながら、私の研究がそんなところに貢献できれば幸いです。