学園にまつわる人々の青春時代を、思い出の写真から紐解くアオハルプレイバック。前号の黒岩亮子先生から引き継がれたのは、家政学部の薬袋奈美子先生です。

薬袋先生は附属中学、高校を経て1992年に本学家政学部住居学科を卒業。東京都立大学大学院工学研究科で修士課程・博士課程を修了されました。

附属高校時代に1年間のオーストラリア留学を経験し、「大学時代は毎年、海外に出ていました。4年の卒論発表会の翌日には成田空港にいました」というバイタリティあふれる学生時代を過ごされました。

アジアのスラムでのまちづくりを通して、住民参加の住環境づくりに興味を持ち、多彩な地域、諸国の都市計画を研究しながら、生活者の視点で住環境を分析し、その環境をより良くするための研究活動を行なっています。

現在、力を入れているのは、住宅地内の道路を生活の場とする“ボンエルフ”を日本にも導入すること。規制や法律、日本人の価値観などと向き合いながら、しなやかに活動されています。


高校と大学1年で訪れたオーストラリア
角度を変えて物事を見ることの大事さを実感しました

私はモノの管理が苦手なので、今回、大学生時代の写真を見つけるのに苦労しました。唯一見つけられたのが、交換留学生のお手伝いをしていた写真です。高校時代に1年間、オーストラリアに留学していたので、海外からの留学生や、日本から海外に出ていく学生のサポートをする機会がよくありました。当時はインターネットやSNSなどありませんから、海外の日常文化を知らないホストファミリーが大半です。そこでイスラム教徒が豚肉を食べられないこと、タイでは子どもの頭をむやみに触ってはいけないことなどを、日本のホストファミリーに伝え、海外からの留学生には日本社会のルールを伝えるようなことをしていました。

当時は今とは法律が違って、1年間留学しても日本の高校の単位としては認められません。そのため高校生を4年間やりました。よく勇気ありましたねって言われますが、高校時代の友達が3倍できましたので、幸せです。ただ、困ったのは友だちの名前を思い出せないこと。附属中学からの友だちもいれば、高校4年間の同級生、大学時代の友だちもいて、母校に戻ってくると事務の方、桜楓会の方、そして附属校時代の先生もいらっしゃいます。さらに今は一緒に学生時代を過ごした人のお子さんが生徒や学生として入学しています。

高校でオーストラリアに留学し、その後大学1年の時にオーストラリアに里帰りをしたのですが、そこで強く感じたのは、同じ国でも時間と場所、角度を変えてみると見えるものがずいぶん違うということでした。

高校時代にホームステイしていたのは、ブリスベンから100キロほど離れた農場で、毎日30㎞離れた町までスクールバスで通いましたが、信号機もない小さな街でした。川や地区の名前には先住民族のアボリジニの言葉が残っていましたが、白人の多い地域で、現地の高校ではアボリジニについて学ぶ機会はありませんでした。しかし大学生になってエアーズロックやアデレードを旅して、多くのアボリジニの方々の姿を目にしました。自然環境を大切にしながら暮らしてきた独自の豊かな文化があるにもかかわらず、かつて住んでいた場所を追われ、差別を受け、所得・教育格差があり、貧困や病気などの問題を抱えているようでした。

1年間過ごしてオーストラリアを知ったつもりになっていたけれど、見えていなかったこと、考えるべきことがたくさんあるのだというのが、大学1年生の私の大きな学びでした。

留学生を受け入れ、送り出すサポートをしていた大学時代。代々木にあるオリンピックセンター(国立オリンピック記念青少年総合センター)に宿泊しながらお手伝いをした記憶があります。「日本では立ち食いをしてはいけないのよ」と、留学生に教えていましたが、すぐ隣の原宿ではみんながクレープなどを立ち食いしていました。

附属中高から大学まで(そして今でも)
やりたいことに、挑戦してみた

日本女子大学附属を選んだのは制服がなかったからです。中学はセーラー服が指定されていましたが(笑)、高校には制服がありませんでしたから。

そんな不純な動機で入学しましたが、附属中学、高等学校は自立をさせてくれる教育だったと、社会に出てから感謝しています。学校行事でも部活動でもリーダーシップを取ることができるし、力仕事もします。世界では女性が活躍するのは当たり前の時代ですが、ジェンダーギャップ指数が世界最低レベルの日本には、本学園の教育はとても必要なのだと思います。

最近、附属高等学校から入学した学生に、なぜこの学校を選んだのかを聞いてみたことがあります。すると、「中学のとき、男女格差があるのが嫌で日本女子大学附属を選んだ」「応援団長は男子などと暗黙の了解があるのがイヤで、女子校を選んだ」「どんな場面でもリーダーになるチャンスが多いと思った」と答えた学生がいました。それには私も共感します。

なぜ大学の先生になったのか?と尋ねられたら、「実は私、先生が一番なりたくない職業でした」と、小さな声で答えます。家政学部の教員がこんなことを言うのはおかしいかもしれませんが、私、家事をやりたくないんです。料理も掃除も、できれば他の方にやってもらいたい。だから専業主婦にはなれないと思っていました。住居学科を選んだのは、異文化を住まいを通して知りたいという気持ちと同時に、建築士になれば一生仕事に困らないと聞いたからです。

大学に入学したとき、親には「女の子は教員免許を持っていた方がいい」と勧められましたが、家政学部で取れる教員免許は家庭科の先生です。附属校時代に調理実習も被覆実習も十分やったので、家庭科はもういい! という感じでした。興味があったのは民俗学や文化人類学だったので、いつか博物館で働けたらいいなと思って、学芸員の資格を取りました。今、3年生の演習で川崎市立日本民家園にある民家が元々建っていた場所を知るワークシート作成をして公開しています。教員免許はとりませんでしたが、博物館という場で日本の文化に秘められた魅力を探求する気持ちは今でも持ち続けています。

大学院を本学ではなく東京都立大学を選んだのは、共感できる本を書かれていた都市計画専門の先生が都立大にいらっしゃったからです。学生時代、マニラを訪れた時にお世話になった東洋大学の内田雄造先生も、都市計画の専門家です。住居学科では建築も学びましたが、自分自身が建築家になるのではなく、建築家に家を建てるための環境を伝える方がいいと思いました。それが都市計画やまちづくりの道に進んだ理由です。

一時期は国連で働きたいと思ったこともあります。大学時代は緒方貞子さんが活躍されていた時期で、海外のスラムを訪れると、UNHCRやJICAの方と接点がありました。国連は決して遠い存在ではありませんでした。その道に進むためには少なくとも修士課程の勉強が必要で、ドクターを持っていた方が有利だということも聞いての進路選択でした。

気になること、やってみたいことに挑戦していたら大学の教員になっていました。

今でも気になること、やりたいことに挑戦し続けています。『道の真ん中でも立ち話したり、子どもが遊んでもいい』という交通ルールを日本にも導入するための研究をしています。非常識と言われることもあるテーマですが、やるべきと感じて続けています。

ここが本学園の教育のいいところ、「やりたいことをやりなさい」という教育ですね。

大学3年のときにはフィリピンに行きました。

この写真はフィリピンの友人が日本のスラムを視察に来たときのもので、同和地区や山谷地区を一緒に巡り、通訳をしながら勉強をしました。

社会人として必要となる力を育む附属中高校の校舎
空間の持つ力を生かすことで豊かになる生活を感じてほしい

大学時代の私が当時の学生の典型だったかと問われると、それは甚だ怪しいのですが、今の大学生を見ていて気になるのはアルバイトの仕方です。多くの学生がシフトを組まれて働く飲食業でバイトをしています。時給千円くらいで企業に使われるのはもったいないなと思うのです。

たとえば住居学科の学生であれば、設計事務所やゼネコン、コンサルタント企業などでバイトをすれば、お金だけでなく経験も積むことができます。私の学生時代にはCADがなかったので、設計図の図面を直したり、色を塗ったりという学生にできる仕事がたくさんありました。

ですが、今はAIに仕事を取られてしまう時代ですから、学生が経験を積めるような別の場を提供するようにしています。たとえば今は、社会連携教育センターの担当をしていますので、地域の人とともにまちづくりに参加できるような機会を提供する場をつくるお手伝いをしています。研究室の中では、日常的に地域の方と共に何かをする機会を提供しています。学生自身が豊島区の財団から助成金をいただいて、地域のお店を紹介する冊子を作るような取り組みを応援したこともあります。

地域の人と関わると、そこでどのような仕事をする人がいるのか、現状はどうなのかを直で知り、こちらの提案を押し付けるのでは住民参加のまちづくりはできないことなどがわかります。さらには建築家やコンサルタントの方とも知り合う機会も生まれますから、その人脈を将来の道につなげることもできるでしょう。出会った人とどうコミュニケーションをとり、どう仕事につなげるかは本人次第なのですが。

附属時代は、女性がリーダーシップを取ってもいい、好きなことをしていいのだという教育だったと言いましたが、西生田キャンパスの附属中高校舎自体がその教育を受け止めるものであることをお話ししたいと思います。*

いちばんのポイントは、高校1年生が4階、2年生は3階、3年生は2階に教室がある意義です。

新しい人間関係を築かなければならない1年生は最上階で、教室前の屋上テラスに集ったりしながら、自分たちだけの空間で人間関係を育みます。2年生は1階にあるもみじモールを見下ろしながら、応援団の練習や学校行事の準備、部活動の様子を見ています。つまり、3年生がどのように行事の準備をして行事を成功に導き、あるいは失敗してしまったのか、どう部活動の運営をしているのかを学べるのです。3年生はやっぱりすごいと憧れることもあるでしょう。そして3年生になったら1階で自分のやるべきことに集中します。

このような学びは受験勉強では得られません。女性が社会に出て、組織を引っ張っていくために必要な力を、いい形で身につけられる空間でした。そして新しくなった大学のキャンパスにも、そういう魅力がありますね。

振り返るといろいろな出会いがあり、さまざまなチャンスをいただいて今があります。

今年の夏はモンゴルに調査に行き、新しい発見がたくさんありました。中学生・高校生の時から関心のあった異文化を知りたいという気持ちを刺激してくれる調査ができました。モンゴルと言えばゲルというテントでの遊牧生活が知られていますが、その暮らしと生業を成立させる地形と居住空間の関係に、長年かけて培われてきた叡智を感じます。一方ウランバートルのような大都市の中にあるゲル地区は、十分な都市基盤がない中で大勢の人が暮らしていて、スラム的な側面もあり、住空間としての課題が沢山ありそうです。モンゴルの伝統文化をふまえつつも、新たな生活スタイルを築くための空間のありようを考えることが求められているようです。空間の持つ力でモンゴルの生活を良くする方法を考える機会をつくれるかもしれないと感じました。本学に2024年に開設される建築デザイン学部は、ここでも力を発揮できるのではないかと今からワクワクしています。

*成瀬記念館 2021 No.36に、薬袋先生が寄稿された西生田キャンパスの記事(校舎図入り:108ページから)が掲載されています。ぜひご覧ください。

学生たちと作成した雑司ヶ谷の情報誌。

この地域をよく知っているからこその言葉にあふれているとお褒めの言葉をいただいたものもあります。


次号は附属高等学校長の薄由美先生のアオハルプレイバックをご紹介!

〈薬袋奈美子先生から薄由美先生へ〉

薄先生は、私が高校生の時の英語の先生でした。異文化を知る窓口の一つが言葉。英語という言葉を学ぶ授業を通して、世界を知る楽しさを教えていただいた気がします。もちろん授業とテストでは、厳しくご指導いただきましたが、今、親となり教員となってみると、クラブ活動、部活動(委員会活動)等を温かく見守ってくださっていたことに気が付き感謝しております。先生のお話、聞かせてください。