学園にまつわる人々の青春時代を、思い出の写真から紐解くアオハルプレイバック。前号の小山聡子先生から引き継がれたのは、人間社会学部の黒岩亮子先生です。

黒岩先生は西生田キャンパスで大学時代を過ごし、1996年に本学人間社会学部現代社会学科を卒業されました。東京都立大学大学院の都市科学研究科では、都市社会学の視点から学び、その後本学の博士後期課程に進学、名誉教授である岩田正美先生に師事し、ホームレス研究、高齢者福祉や地域福祉などをテーマに多くのフィールドワークに携わって来られました。「地域福祉はチームで取り組むことが重要」という先生の大学時代は箏曲研究会や聖書研究会で活動し、助手時代には「助手会」のメンバーと協力しあって仕事をするなど、多様なチームの中で活躍されていたようです。

2012年に出産し、本学の専任講師として戻って来られてからは、子育てと研究室を両立させる日々を過ごされています。


一生の友だちになった「カナフレ」

私は西生田キャンパスに開講された現代社会学科の3期生です。当時はスタートしたばかりの学修プログラムも多く、中でも2、3年生を対象に実施されたカナダでの1か月の研修は、その後は単位として認定されたプログラムに発展しました。

私が3年生のときに参加したカナダ研修のテーマはカナダの多文化を学ぶことでした。ブリティッシュコロンビア大学にいらっしゃった先生が本学に着任し、主宰された研修です。4月から毎週土曜日に事前学習が始まり、現地ではホームステイも経験、教会を会場に様々な講師から学んだり、ショートトリップなど外に出て学ぶことが多く、その経験ものちのフィールドワークに繋がっています。

現代社会学科の3年生の学生は10人程度が参加したのですが、毎週行われる事前学習で会うのでとても仲良くなり、カナダフレンズの「カナフレ」と呼びあう仲間になりました。みんなでカラオケに行ったり、お誕生会を開いたり、一緒に旅行にも行きました。今でも子どもが同年代という仲間もいて、家族ぐるみの付き合いをしています。

仲間うちで研究の道に進んだのは私だけですが、バリバリと働いている人が多いです。大手企業の総合職として就職し、初職からずっと同じ企業でキャリアを積み上げている人もいれば、30歳前後に転職した人もいます。皆、それぞれの分野で活躍し、ゲストスピーカーとして私の研究室に来てくれる人もいます。今では早期定年退職を検討しながら第二の人生を考えている仲間もいます。

それぞれが多様な道を歩んでいますが、人と関わり、人を成長させることに興味がある人が多いように思います。

一緒に渡航した仲間とは、子どもが同じくらいの歳ということもあり、家族ぐるみの付き合いをしてきました。

医学の道から社会問題に興味が転じた高校時代

友人が就活をしているとき、私は学際的な研究をするために大学院を目指していました。それは母の影響も大きいです。小・中・高の教員をした後に子育てしつつ大学院の博士課程まで進学し、大学の非常勤講師を務めていた母はよく「女性は何か専門分野を持った方がいい」と言っていたので、私も最初から大学院まで進むつもりでした。

大学院では本学の非常勤講師であった都市社会学の大家、高橋勇悦先生のもとで学びたかったので東京都立大学の都市科学研究科を受験しました。同研究科は狭き門だったので、本学の先生に夏休みに院入試を受ける仲間と共に指導をしていただいたのがいい思い出です。英語対策は時事問題の新聞記事や社会学のテキストを原書で読むなどして勉強しました。仲間が就活をしている時、私は高校生のような受験勉強をしていたわけです。晴れて合格できた時の喜びはとても大きかったです。

思い返せば、高校生の頃から私は色々な道を目指して試行錯誤を繰り返してきました。

私の出身高校は医師を目指す人が多く、私も高校2年までは理系選択で、無謀にも国公立の医学部を目指していました。高校時代の恩師が在宅医療や地域医療の現場を見せてくださったこともあり、とても憧れたのです。が、問題は苦手な数学と物理です。自身の適性も考える中で、次第に医療にまつわる社会問題に興味が湧いてきました。さらにジャーナリストになりたいという気持ちもあり、3年で文転して本学の人間社会学部に入学したのです。

本学では、高校時代に興味を持った在宅医療につながるフィールドワークもありました。たとえばゼミや授業で訪れた谷中の特別養護老人ホームのフィールドワークでは、地域に開かれた老人ホームの様子が興味深く、卒論のテーマにもなりました。

実は私、成瀬賞をいただいているんです。卒業式では総代を務めたので、現代社会学科の友だちは驚いていたのですが、勉強やフィールドワークは結構頑張っていたんですよ。我孫子から読売ランド前まで2時間くらいかけて通学していた常磐線の中で、私自身は爆睡していた記憶しかないのですが、実際は勉強していたのかも?と思うくらいです(笑)。

大学1、2年の頃は、周りの友だちがキラキラとした大学生活を送っているように見えて、自分はそれとは違うかなと孤独感を感じたこともありました。でもカナダ研修に行って、同じ興味関心を持つ仲間に出会い、ゼミを通したフィールドワークで自分のやりたいことがおぼろげにでも見えてきた時、私の大学時代はただ群れるだけではなくて、自分のやりたいことを見つけるためにあったのだと感じます。

箏曲研究会の仲間と。

西生田キャンパスには、常磐線1本で通っていました。他にも常磐線通学の人たちがいて、「ジョーバンズ」と呼ばれていました。

遠回りする人生万歳!

今の私の研究を語る上で、岩田正美先生との出会いは欠かすことができません。岩田先生と初めて出会ったのは、先生がまだ東京都立大学院に在籍されていたときで、研究科が違うのにも関わらず授業に出させてもらっていました。その後先生は母校である日本女子大学に移られたわけですが、私の博士課程入学の1999年当時は、バブルが弾けてホームレスが社会問題化していた時代でした。岩田先生はまさにホームレス研究の第一人者で、博士課程1年生の私はホームレス調査の事務局を担うことになりました。隅田川周辺などの路上調査をし、保護施設の方にもお話をうかがいました。それは結核にならないように気をつけなければならないような、大変な調査でしたが、現場を知ることの大切さを学んだ経験です。福祉の研究とは、優しさが大事とか支え合いとか、そんなふわふわした概念だけでなく、もっと他分野も知って論理的に考え、多くの人を巻き込んでいかなければならないことも岩田先生に教えていただきました。結果的に、岩田先生の調査は「ホームレスの自立等に関する特別措置法」の提案につながりました

実は私は博士課程に進学するか悩み、就活としてメディア系の企業を受けたりもしました。その後受けた博士課程の試験では「あなたは本当に福祉をやりたいのか?」と言われて落ちてしまい、進学前の1年間は本学の非常勤助手として働いた経験があります。当時、都立大学で同じ研究室にいた夫にも「あの頃、君は迷走していたよね」と言われるくらい、悩み多かった時期です。進学後も路上調査が忙しくて論文が書けないと言って、岩田先生に叱られたこともあります。それでも進学の道が開かれ、博士課程を満期退学した後には本学の専任助手・助教とさせていただき、助手5年目にして博士論文を提出することができたのです。岩田先生始め本学の先生には感謝しかありません。

他大学の専任講師を経て、出産も経験して本学に戻ってきたのは2012年のこと。今、学生に「先生の就活はどうでしたか?」と聞かれるのですが、「ボロボロでした」と答えると、学生は励まされるようです(笑)。

一方で福祉を学ぶ学生たちは「福祉を勉強しているというと、偉いねとか、優しいんだねと言われて、とても嫌だ」という人が多いです。「福祉ではなくて『多様性を学んでいます』と言うようにしています」と話す学生もいました。でも、みんなもっと自信を持って欲しいのです。私自身、岩田先生からは「この人、本当に研究者になれるのかしら?」と思われていたに違いありません。岩田先生は厳しかったけれど、「あなたはダメ」と否定されたことは一度もありません。

先日は、やりたいことがあるので1年間休学したいという学生がいました。一直線に研究者への道を歩んでこなかった私にとって、休学の申し出はとても共感できることでした。人生は一本道ではない、焦ることはありません。自分で自分の道を狭くする必要もありません。学生に一番伝えたいことは「遠回りする人生万歳!」です。

谷中のフィールドワークの仲間たちと共に。

町の真ん中にある特別養護老人ホームが、地域のお祭りの御神酒所になることも。そのような地域コミュニティは、地域に開かれた特別養護老人ホームの走りだったと思います。


次号は家政学部の薬袋先生のアオハルプレイバックをご紹介!

<黒岩亮子先生から薬袋奈美子先生へ>

学科・研究科は違いますが、日本女子大学から東京都立大学大学院に進学された薬袋先生。また、私も地域福祉の観点から「まちづくり」を学んできたので、住民参加型の「まちづくり」を専門とされる薬袋先生はまさに私のロールモデル、憧れの先輩です。本学に専任教員として着任してから、総合研究所の課題「大学の地域貢献」でご一緒したり、「異分野連携実践演習」の授業も共担させて頂いたりと、たくさんの刺激、学びを受けてきました。これからも先輩として様々にご指導頂きたいです!