学園にまつわる人々の青春時代を、思い出の写真から紐解くアオハルプレイバック。前号の今市涼子先生から引き継がれたのは、人間社会学部の小山聡子先生です。

小山先生は1975年に本学文学部社会福祉学科に入学し、小島蓉子先生(1993年に逝去)のゼミに所属していました。小島先生は国際障害者リハビリテーション協会社会委員会委員長をはじめ日本政府代表代理として国連総会で活躍するなど、社会リハビリテーションの分野に多大なる貢献をされると同時に、小山先生のキャリア形成にも大いなる影響を与えられたそうです。

小山先生は1980年の卒業後に肢体不自由児施設で2年ほど勤務され、ミシガン州立大学教育学部大学院リハビリテーションカウンセリング専攻を修了(M.A.)。障害者支援施設でソーシャルワーカーとして勤務する傍ら、本学大学院文学研究科社会福祉学専攻博士課程後期に通い、満期退学の後、1996年から本学に着任されています。専門は、ソーシャルワークの理論と方法、障害と社会福祉。学位は博士(社会福祉学)。


社会問題と勉強と恋に一杯一杯の大学時代

今回の取材をきっかけに、とても懐かしいノートを見つけました。表紙にはcoopの文字。1977年5月から1978年9月までの大学生活を綴った日記帳です。6月5日の日付でこんな一文があります。

「生まれて初めてパーマをかけたら、4,800円という大金だったのに、すごくオバさんぽくなってしまった。ぐえー!恥ずかしくて学校に行けないよ!!」。当時の美容院代が約5,000円ほどだったことがわかると共に、今の学生も同じような経験があるのではないかと推測される記録です。

そんな日常の傍ら、6月12日には「33年前の8月6日には、広島の爆心地で人間が一瞬にして蒸発してしまったことを忘れてはいけない」とも書いています。

当時は四角四面のくそ真面目で、驚くほど遊びに行った記述が少ないのですが、それはこの大学で出会った学びが本当に楽しかったからだと思います。特に社会科学系の一般教養の授業や専門科目は面白くて、いつもテンションが上がっていました。

一方、そうして学ぶと、社会構造から来る矛盾と自分の立ち位置が見えてきます。たとえば毎日食事をし、教育を受けられるのは、親元でぬくぬくと暮らしているからだと悩むこともありました。そこで「学バスの運賃が値上げされるのは許せない!」となれば、「明日からは学バスには乗らない」と決意し、仲間たちと一緒に歩いたりもしました。自分の主張と行動をなんとか整合させようとする小さなもがきでした。

一方で青春時代に恋はつきもの。ノートには人を好きになって悶々とする様子も綴られています。12月30日、「一つの季節が終わった」という大きな文字で書いた一文は失恋のことでしょう(笑)。相手に送った手紙の下書きの裏に書いて貼り付けてあるのですが、怖くてはがすことはできません。

大学時代はこの社会福祉学科での勉強が楽しくて、ずっと勉強を続けたいと思い始めました。例えば社会学の講義を受けた後には「難しくて理解できない。有賀喜左衛門先生はなんて頭がいいんだろう。というより多分、努力をしたのでしょう。そして努力するにはやる気、つまり何かに惚れ込まなくちゃだめなのよ。果たして私に、学問に対するそこまでの熱意があるのだろうか」「私って本当に勉強に向いているのかしら?教員を目指すなんてもしや間違い?」などの記述がところどころにあります。そうして悩みながらも、「学者になりたいと思ったのは、そもそも生きること=勉強の継続に他ならないと認識したからだ」との一文が、大学教員の道を志した理由を表しています。

※有賀喜左衛門先生 社会学者。本学第7代学長。

目白祭で配布した「アンダーライン日韓」と、日記帳にしていた日本女子大学生活協同組合のノート(このノートは今も販売されているのでしょうか)。

悩み、考えながら1年間の任期を全うした学生自治会長職

この日記帳のもう一つのキーワードは3年次に務めた自治会長としての活動です。

1977年当時、本学の学生自治会は、ある政党の青年組織とつながりがあり、従って自治会長を務めるということは、その政党の主張とつながる活動をすることをも意味していました。しかし私は「ちょっと待て、それは空っぽの一升瓶にとりあえず何か入れて、あとから‘醤油’とか‘日本酒’とかいうラベルを貼られるようなものじゃないか」と思い、その青年組織には入らずに活動していました。そのせいか、日記帳には「自治会のファッショ反対!」という文言もあります。

学内には、自治会と関係のある政党とはまた別の政党につながりがある学生組織(クラブ連合)もあったので、自治会長としての私は活動方針をめぐって、時にその組織と対立することになります。当時の学生運動は学園の民主化や学費値上げ反対などをメインに訴えていて、毎週、自治会が主催する会議で色々とやり玉にあげられるわけです。日記には「個人の思いはさておき、組織として他人と対立関係となってしまう緊張感がものすごく辛い」とも書いています。

もちろん社会運動や活動を行う場合、同じ考えを持つ人たちと連帯して、一緒に声を上げていくのは大切なことです。しかし当時の私は、自分の気持ちと異なる主張をさせられたり、自動的に特定の組織に入ることを当然とする雰囲気に息苦しさを感じていました。

それを恩師である小島蓉子先生に相談すると「あなたはFree Thinkerだから悩むのよね」と、アドバイスをくださいました。そのおかげもあって、次の自治会長選挙のときには、恒例となっていた次期候補者の推薦をせず、「みなさん、自分の頭で考えましょう」と書いたビラを作って、70年館の学生スペースで配布しました。大学生の私はまだまだ軟弱ではあったけれど、常に自分の頭で考えて行動したいという思いで1年間の自治会長の任期を終えたのです。

卒業式後の謝恩会にて。恩師の小島蓉子先生と共に。後列右端が私。

憧れの友人と目白祭

古いアルバムには、目白祭のひとコマもあります。家政経済学科や食物管理学科など、異なる学科の友だちとの有志団体として活動した「日韓関係研究ゼミ」の発表の様子です。このときある友人は、韓国の低賃金労働で作られた安い靴下等衣類のことや日韓経済について調べ、私は戦後のアメリカ世界戦略における日韓関係の経緯を調べて皆で年表も作りました。またその成果について、『アンダーライン日韓』という冊子をガリ版で刷って先生たちに配布しています。写真のキャプションには「5人の仲間は徹夜の連続で力作のパンフレットを作り上げた」とあります。

そもそも私が自治会に入ったのは、このゼミで共に研究した家政経済学科の友人がきっかけです。彼女は一般教養の国際関係論の授業で素晴らしいレポートを発表していました。「私もこんなふうになりたい」と彼女に憧れ、友達になりたいと考え、彼女と一緒に自治会活動をすることになったのです。

憧れの友人は、いろいろな世界を見せてくれました。「先生がローザ・ルクセンブルクを読む会を開くので一緒に来ない?」と誘ってくれたこともあります。日記帳には、ローザ・ルクセンブルクを読み込んだ結果、「皮肉屋のローザおばさんを祝して・・・」などと隣の住人みたいに書いた記述もあります。

目白祭では印象的なことがもう一つありました。社会福祉学科の仲間と、障害の問題や貧困などについての研究発表をしていた私に、ある来場者の方が「あなたが1食のご飯を食べるために、死んでいく人がいるんだよ」と言われたのです。つまり、君は偉そうなことを言っているけれど、その間にも開発途上国では病気や飢餓で死んでいく人がいるのだということです。それは極論ではあるけれど、当時はその言葉に非常にショックを受けました。社会とどこまでも繋がって、自分はその社会の網の目のどこにいるのかを考えなければダメだと思いました。それからずっとソーシャルワーク実践と研究を続けてきて今があります。

悩み、勉強した私の青春時代の軌跡は日記帳にありますが、今の学生が悩みを綴るのは紙ではなくインターネットの空間です。同じ主義主張を持った仲間との「連帯」も、キャンパスの真ん中で叫ぶ形ではありませんね。それでも#MeeTooや#KuToo運動を見ていると、私の時代とは違う形の連帯があるのだなと感じます。今の時代、人権についての議論が盛んに行われていますが、私の大学時代とは違う「連帯」で、一人ひとりを尊重し、多様性を認める世の中にできるはずと期待しています。

※ローザ・ルクセンブルク ポーランド生まれのドイツ人の女性で社会主義者。ドイツとポーランド で社会主義を指導した。

卒業直後に就職した肢体不自由児施設の遠足にて。お弁当の介助をしているところ。


次号は人間社会学部の黒岩先生のアオハルプレイバックをご紹介!

<小山聡子先生から黒岩亮子先生へ>

現代社会学科を卒業し、本学名誉教授の岩田正美先生に導かれて社会福祉学科にいらした黒岩先生は、1990年に開設され2021年に閉校式を行った本学の西生田キャンパスで青春時代を過ごされました。地域福祉を通じて社会の課題解決をと考えるようになった先生の西生田時代にはどんな輝きがあるのでしょうか、学生たちに大人気の先生の青春に興味津々です。