学園にまつわる人々の青春時代を、思い出の写真から紐解くアオハルプレイバック。前号の宮崎あかね先生から引き継がれたのは、理事長の今市涼子先生です。

今市先生は大妻高等学校から日本女子大学家政学部家政理学科二部に入学し、生物・農芸を専攻されました。卒業後に千葉大学理学部文部技官を務め、1977年にお茶の水女子大学大学院理学研究科生物学専攻修士課程を修了。玉川大学農学部で約20年間勤められた後に本学理学部教授に就任しました。玉川大学在職中の1983年に京都大学より理学博士の学位を取得されました。ご専門は植物形態学。世界中を飛び回りながら、1999年には根研究会学術功労賞を、2001年には日本植物形態学会平瀬賞を授賞し、2008年には日本植物形態学会会長に就任されています。2020年に本学理事長に就任されてなお「まだまだ書かなければならない論文がたくさんあります」と、精力的に活動されています。


社会に不満を持つのは若者の特権。それは社会に興味があるということです。

私が大学生だった頃は70年安保の時代です。日本は日米安保条約の改定問題を巡って混乱が続き、1969年に東大安田講堂攻防戦があり、東京大学の入試がなくなった年、私は大学3年生でした。安保に反対する学生が立ち上がり、国はいわゆる大学立法を作って学生を抑えようとしていました。

本学ではロックアウトはなかったものの、授業に出ずに学生による自主ゼミを行ったり、キャンパス内では拡声器を使ってアジテーションをする人もいて、主義主張が違う人同士の喧嘩が始まったこともあります。

私が学んでいた家政理学科二部の同学年には40名ほどの学生がいましたが、積極的に学生運動をしている人はごくわずか。私自身は学生運動に参加しなかったのですが、社会体制に憤りを覚えることもありました。一番憤りを覚えたのはベトナム戦争です。大学生の心情として国家権力に反対していました。今から思うと幼かったとも思いますが、そういう世相に乗っていました。でも、そもそも若者って、世の中に不満があるものではないでしょうか?それは社会に対して興味を持っていたということでもあります。

大学4年生のときには、市ヶ谷の自衛隊駐屯地(現・防衛省本省)で三島由紀夫が割腹自殺を遂げました。そのとき私は大学のキャンパスにいたのですが、今のようにSNSで情報を知ることはできません。急いで池袋のデパートに行って、多くの人々に混じってテレビ画面を注視していたのを覚えています。

大学4年の夏、卒論研究に励む中、時間を作って「日本植物友の会」主催の植物観察会に参加していました。苗場山の山頂にて。

70年安保と植物観察旅行。「それはそれ、これはこれ」の大学時代

世の中は学生運動が席巻していた時代ですが、一方で私は写真のようによく旅行や登山を楽しんでいました。安田講堂事件の年には、約20日間、同じ学科の友だち3人と夏の北海道を巡っていました。学生はお金がないから1泊700円くらいのユースホステルに泊まるのですが、中には朝食のおかずはペラペラのハム一枚、なんてところもありました。あるときはちゃんとした旅館に泊まったこともあったのですが、それでも「こんな旅行はもう嫌だ」と飛行機で帰った人もいました(笑)。旅行やキャンプなどアウトドアを楽しむ一方で、サルトルやボーヴォワールを読んでいました。「人は女に生まれない、女になるのだ」とするボーヴォワールの「第二の性」の考え方は、女子大に学ぶ私にとって刺激的でした。

本学は早稲田大学が近いので交流をする機会も多くありました。当時、関東にある大学の生物系の学生が集まって懇談会を作っており、早稲田大学の教育学部の生物学専攻の学生が熱心に活動していました。日本女子大の私たちも、数人で参加し、よく勉強会をしていました。

私は盛んに旅をしていましたが、中にはダンスパーティーに熱中している人もいて、みんなちゃんと遊びにも勤しんでいました。学生運動のまっただ中にいるけれど、大学生として楽しみたいこともある。それはそれ、これはこれ、だったのです。

今から思えば、いろいろと政治的な主張を持った人がいながら、何かあればちゃんと協働していたような気がします。それぞれが自分の好きな世界を持っていて、お互いに価値観を認め合っていたのでしょうね。多様性が尊重される環境です。クラス会などで集まると、学生の頃のぶつかり合いなんてなかったかのように仲良く話をしますから。

北海道旅行で泊まった洞爺湖のユースホステル。今は亡き友人と共に。彼女の縁で千葉大学理学部文部技官を務めることになりました。

自分は一生、日本女子大学に関係があるのではないかと感じた受験の日

私が植物に興味を持ったのは大妻高等学校時代です。部活動説明会のときに先輩から「生物部に入ると、毎週、奥多摩にキャンプに行けます!」と言って勧誘されたのです。中学、高校と女子校で過ごした私が、女子大学を選ぶのはとても自然なことでした。家政理学科二部は生物と農芸を修める学科だったので、私の好きな世界です。

本学に受験で訪れたときは、とても不思議な感覚になりました。「自分は一生、この学校に関係があるのではないだろうか?」と。実際、その通りになっているのは本当に不思議なことですね。

女子大で過ごして良かったことは、社会に出て、世の中での女性に対するアンコンシャスバイアスに気づけること。玉川大学農学部に就職して出勤初日の事でした。飲み終わった湯飲み茶わんが流しに沢山置いてありましたが、洗わずに置いて帰りました。翌日、最初に「なぜ洗わなかったのか」と言われたのですが、「私は農学部の助手として研究するためにここに来ました。だから洗いませんでした」と答えました。周囲はすぐに辞めるだろうと見ていましたが、結局20年勤めました。

これはヘンだぞ、と思ったら素直に「おかしい」と言えるのは、自分にとっても世の中にとっても有益だと思います。そして女子大で自由に伸び伸びと過ごしたからこそ、男性中心の社会でも臆せず研究ができたのだと思います。東南アジアの山の中での調査はテントで雑魚寝です。「今市さんの背中をよく見た」という男性もいます(笑)。でもそんなの仕方ないですよね。男性がいるところでも着替えなければならないのですから。

調査隊が山の中に入るとき、隊のメンバーはそれぞれが自分のやるべき研究を遂行します。採集や標本作りなどもすべて自分一人です。危険な川を渡るときもそう。谷にかけられた細い丸太の上を行くか、または、ヒルが吸い付いてくるのはすごく嫌だけど、谷底まで森を降りて川を渡るか、どちらが安全か。自分なりに危険回避をして渡るしかありません。ただ私は「どっちの道に行くべきか?」と迷ったときの選択は早いです。しかも大抵は正解です。だから「即決の今市」と呼ばれます(笑)。

女子大学生と一括りにはできないけれど、本学は言うべきことをはっきり言える人を育てやすい環境だと思います。しかも正直で真面目な学生が多いので、コツコツと学ぶうちに、自分に何ができて何ができないのかを理解して、次にどう進むべきかを選択できるのだと思います。

本学園には、豊かで伸び伸び学べる環境が揃っています。ぜひ、豊かで自由な発想を巡らせてください。

カメルーンでのカワゴケソウ調査(2004年)。足元に生育するカワゴケソウ科植物は、コケに見えますが、花をつけるれっきとした被子植物です。30歳代から、ユニークな形に適応進化した植物の調査を熱帯で行ってきましたが、大きな調査はこのカメルーン行が最後のものになりました。


次号は人間社会学部 社会福祉学科の小山聡子先生のアオハルプレイバックをご紹介!

<今市涼子先生から小山聡子先生へ>

日本女子大学は2024年度から、トランスジェンダー学生(女性)の受け入れという新しい一歩を踏み出します。本学がこの決定にたどり着けたのは、ひとえにダイバーシティ委員会の委員長、小山聡子先生のお力によるものです。先生のお話は、いつも演劇をみているようにドラマチックで、心に残ります。ソーシャルワーカー教育でロールプレイの訓練を受けておられるからでしょうか。羨ましい限りです。小山先生がなぜ社会福祉に興味をお持ちになられたのか、そして本学でどんな大学生活を送られたのか、是非伺いたいと思います。