学園にまつわる人々の青春時代を、思い出の写真から紐解くアオハルプレイバック。前号の篠原聡子学長から引き継がれたのは桜楓会の高野晴代理事長です。

高野先生は日本女子大学附属中学、高等学校で学び、1974年に日本女子大学文学部国文学科を卒業、1980年大学院文学研究科日本文学専攻博士課程後期を単位取得満期退学されました。2020年まで文学部長を務め、9万人の桜楓会員のトップに立つ理事長に就任されてからも、パソコンを駆使して研究や執筆活動を行なっています。


二つの「歌」に魅せられた中高時代

数年前、日本女子大学国語国文学会の学生たちが、私のところにインタビューに来てくれました。そのとき、「研究者を志さなければ、どのような道に進みたかったか」という質問がありました。それに対する答えがこの一枚の写真です。母が縫ってくれた衣装を着て、大学2年頃、日本歌曲の「さくら横ちょう」をコンサートで歌っています。ここに至るまでの状況をお話ししましょう。

附属中学校時代、主事(校長)であり後に学長を務められた青木生子先生が、朝の会や行事の折にさまざまな文学作品を紹介してくださいました。例えば、志貴皇子の『岩ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも』という歌。春の朝、青木先生はとても美しい声で読んでくださったので、私の脳裏には鮮やかに春の風景が見えてきました。『万葉集』をはじめ『古今集』『新古今集』と読み進めました。この歌々に魅せられました。それが「和歌」の世界です。

附属中学ではコーラス部で歌いました。高校に進学するとき、中学のコーラス部でもご指導くださった音楽の先生が「もう少し声楽を勉強してみたらどう?」と紹介してくださったのが、附属高等学校ご出身で東京芸術大学で学ばれた声楽家でした。そこでは基礎から声楽を学び、シューベルトの歌曲やオペラのアリアにも挑戦しました。特に歌いつつ感激したのは、日本歌曲です。先に挙げた「さくら横ちょう」は加藤周一の歌詞で、中田喜直が作曲です。加藤の詞は、「春の宵 さくらが咲くと花ばかり さくら横ちょう 想出す 恋の昨日……会い見るの時はなかろう「その後どう」「しばらくねえ」と言ったってはじまらないと心得て花でも見よう…… 」これが中田の切ない曲にのせられて歌われるとき、散る花を見ながら一人佇む男の姿が浮き上がってきます。この歌に魅せられました。それは、言葉に音が寄り添って再現した「歌曲」の世界です。

「春」という季節であるならば、春の情景を微細な動きで再現した和歌、春の散花を前に恋の場面を、さらに音とともに再現する歌曲という二つの「歌」に心を動かされた豊かな時間を過ごしました。私は次第に言葉を音として再現するよりも、その言葉自体にもっと携わりたいと思うようになっていきました。声楽を学びながら、国文学科で古典を読む。念願叶った大学進学でした。

自主ゼミで培われた力を活かして

大学に入学したら、是非とも自主ゼミに入りたいと思っていました。単位を取るゼミではなく、学生が自主的に運営し、先輩方と一緒に作品を読むのです。入学時には『源氏物語』のゼミを希望したものの2年次からのゼミでしたので、1年次も参加できる「芭蕉ゼミ」に入りました。自主ゼミでも、先生方がそれぞれついてくださり、芭蕉ゼミは、俳人でもいらした中島斌雄先生からご指導を受けました。中島先生には言葉を組み合わせることによって、新しい世界が生まれていく醍醐味を教えていただきました。一年次では『嵯峨日記』を読み、三年次では、俳諧七部集に注釈を付けるなど研究が進みました。その研究の仕方や発表について先輩たちが厳しくも優しく、丁寧に指導してくださいました。作品に書かれた場所、芭蕉にゆかりの土地―伊賀上野や琵琶湖周辺を訪ねるゼミ旅行、作品を朝から夜まで読み、時には、中島先生ご指導のもと、実際に連句を巻いた(連句を皆で実際に作った)北軽井沢での合宿等々を通して、読む力、表現する力を身につけることができました。自主ゼミで培われた文学への傾倒がその後、研究の道を進む契機であったと今、思います。

中古自主ゼミの研修旅行では、旅行行程を綴り、ゆかりの地や作品を紹介した冊子を制作します。冊子の作り方も先輩から後輩へと継承されました。

その時から約30年後、私は、日本女子大学で教えることになりました。そこには中古(平安時代)自主ゼミがあり、今度は自分が指導するという仕事が待っていました。中古自主ゼミでは、『源氏物語』『蜻蛉日記』『枕草子』と学生たち自身で毎週のゼミで扱う対象を決めていきます。一年生は、発表方法をやはり先輩から学び、図書館の使い方を習う図書館ツアーもあります。夏休みには、自主ゼミ旅行を実施します。京都、伊勢など学生たちがすべてのスケジュールを立て、ゼミ旅行のしおりを毎回作り、旅行の前にゆかりの土地と作品を調べます。私はついていくだけなのですが、例えば鞍馬で、足手まといにならないように頑張って山を登り、次は下ってようやく貴船神社に到着、みんなでアイスクリームを味わったのも、楽しい思い出です。

学生であったときの自主ゼミでの感激が、教員になって蘇りました。30年以上の時間を経ても、学生のための自主ゼミを続ける日本文学科に、ひいては日本女子大学に優れた伝統の強さを感じています。

論文執筆のためにこもった思い出の旧図書館

卒論で扱う対象は、中古文学の上村悦子先生のご指導のもと、紀貫之にしました。日記(『土佐日記』)作者、歌論(『古今集』仮名序)を記すマルチな「歌人」を扱いたかったからです。貫之の歌を集めた『貫之集』を、1首目から注釈をつけつつ読みました。半分の400首ぐらいまで読み進んでも、すべて屛風の歌です。屛風の歌は、屛風に関係する歌と言えますが、多くは屛風に書かれた歌です。絵とともに鑑賞される特徴を持っていて、屛風の各場面に詠まれている和歌のため、各歌は繋がっているようにも見えます。その時、閃くように感じたのが「連作性」という言葉でした。芭蕉ゼミで学んだ「連句」世界は、各句の繋がりによって出来上がっていました。私は連作性という概念も用いて屛風歌を研究していきました。後に、その連作性によって、『源氏物語』の「幻巻」に繋がる論文を書きました。

今、よい結果だけを書きましたが、大学院に進み、それまであまり対象とされていなかった屛風歌研究を続けるかどうか迷うことがしばしばありました。その時ご指導くださったのが、後藤祥子先生でした。「これはもっとやるべきよ」さらに「絶対やるべきよ」と仰ってくださった言葉が、今も聞こえます。修士論文は屛風歌の基礎的な文献を確認するべく、多くの私家集にあたり、翻刻されていない文献は、宮内庁書陵部に通い、読みました。学生たちにどうしたら変体仮名が読めるようになるか、とよく問われるのですが、読まなければ、進まないという切羽詰まった状況が一番の力になるのよ、と話しています。

論文を書く上で、思い出に残っているのは、旧図書館の一階です。そこはいつもひっそりとしていて、なんとなくいつも顔を合わせる人たちがいました。クラスでもない、サークルでもないコミュニティのようなものができていたと思います。旧図書館の特徴は全開架式であることです。旧図書館の設立に尽力された上代タノ先生のコンセプトこそ全開架式でした。自分の読みたい書籍を自分で手に取って選べることは素晴らしいことと思いませんか。今回私を推薦くださった篠原聡子先生と図書館についてもよくお話ししましたが、学生が望めばすぐに手に取って学べる環境ということが重要という点を一番に受け止めてくださいました。新図書館ももちろん全開架式です。

日本女子大学で学び、教員として勤める中でのいくつもの大切な出会いによって、今私はここにいます。日本女子大学に関わる人たちは、皆、頑張っている人の可能性を引き出し、後輩に何かをつなごうとしています。理事長をしている桜楓会も、後輩を支えたいと切に思います。学生のみなさんには、このキャンパスで是非、自分自身の可能性を発見していただきたいと思っています。


次号は宮崎あかね先生のアオハルプレイバックをご紹介!

<高野晴代先生から宮崎あかね先生へ>

もう10年以上も前になります。新カリキュラム構築のため、教養教育ワーキンググループが作られ、そこでご一緒しました。学部を越えて、夜遅くまでのディスカッション、いつも有益な意見の宮崎先生を頼もしく思いました。その頃丁度私が『源氏物語の和歌』という本を出版し、差し上げました。宮崎先生はすぐに読まれて、原文も読みたいと仰ってくださいました。図書館にある『源氏物語』の講義の指定図書をご紹介しました。それを借りて読んでくださったことに感激しました。