今号からスタートしたアオハルプレイバック。

本学の卒業生で、現在学園に関わっていらっしゃる方々の青春時代を、思い出の写真から紐解いていただきます。学園ニュースデジタル化の記念すべき第1号は、学長の篠原聡子先生です。

篠原先生は1977年(昭和52年)に家政学部住居学科に入学、1983年(昭和58年)に大学院修士課程(家政学研究科住居学専攻)を修了されました。本学で住居学科教授として教鞭を執りながら、120周年記念事業では目白キャンパス整備を統括する建設事務室室長も務められました。2020年(令和2年)の学長就任後にも、創立120周年記念事業の建築部門の仕事を兼務されています。

「キャンパスのことは誰よりも詳しいと思います」という篠原先生が、大学時代の「アオハル」を語ります。


設計課題と格闘し、レポートに追われた大学時代。
それにもめげず、よく食べ、よく旅に出かけました。

日本女子大学にまつわる一番古い記憶は、入学式に母が参列してくれたことです。母は日本女子大学附属高等学校の出身です。旧制の高等女学校から新制高等学校に学制が変わるときで、日本女子大学附属高等学校には2年のときに編入し、西生田の校舎で学びました。母は始業式や修了式のときには目白キャンパスに来ていたそうで、私の入学式に参列したときは成瀬記念講堂をとても懐かしんでいました。

「目白キャンパスに来るまで忘れていたけれど、『桜楓さくらかえで)樹下道こしたみち) みどりの風の吹くところ』という校歌の歌詞が、あとからあとから浮かんできた」と言っていたのを覚えています。

入学式は今も当時も成瀬記念講堂です。今の私が成瀬記念講堂に行くときには、当時を懐かしむ余裕はありません、何かしらスピーチをしなければならないので(笑)。

大学1年のとき父が亡くなったので、大学時代は少し暗いイメージがあります。この写真は大学2年生くらいの家族旅行の一場面です。父亡き後、母が私たちを励まそうとして企画した家族旅行でした。私は長女ですから、母を支えなければいけないという緊張感のあった時期ですね。

大学生活は課題の提出にあけくれていました。住居学科に入学したとき、小川信子先生が学生たちに向けて「これから大変ね。ご愁傷様」と言われたのは衝撃でした。小川先生は髪をシニヨンに結って凛としていて、迫力がありました。その言葉通り、課題や実習、レポートをこなすのはとても大変でした。同時に、建築という新しい世界に入っていくようなわくわくした充実感もありました。

その大変さをともに乗り越えた仲間たちとはよく一緒に食事をしました。私は江戸川橋で一人暮らしをしていたのですが、課題が終わると「打ち上げ」と称して私の部屋に集まって、食材を買い込んで料理をして、お腹いっぱい食べたのを覚えています。課題のために徹夜が続いて眠いはずなのに、それよりも食欲が勝っていたのでしょうね。今はもうないのですが、学食には「ウイミン」というカフェがあって、そこの大きなパフェも疲れた日のご馳走でした。

忙しかったけれど、よく旅にでました。卒論で取り組んだ茶室をみるために、京都には何度も行きました。ときには、お金がなくて、鈍行列車で行ったこともありました。お金はなくても、時間はあったということですね、それから、体力も。旅で新しい建築に出会うのと美味しいものに出会うのは、本当に楽しみでした。それは今も変わってなくて、アジアを中心に海外の住宅の調査に行く際の、調査地決定のポイントのひとつは「美味しいものがあるところ」です。建築史家の陣内秀信先生が「美味しいものがあるところには文化がある。それは調査をする価値がある」とおっしゃっていましたが、まったくその通りだと思います。

大学院に行って、この仕事をずっとやっていこうという覚悟ができたと思う。
就職の選択肢は限られていたけれど、むしろ自由だったところもあるかな。

住居学科で学んでいた頃、仲間たちの中にはさまざまな個性を持った人たちがいました。精密なモノづくりをする人、ダイナミックに創造する人などいろいろです。設計はアウトプットが目に見えるので、キャラクターやセンスが一目瞭然の世界です。その厳しさもあるけれど、達成感もありました。卒業後に建築とは違う世界で活躍している人もいますが、学生時代に苦労をともにしているので、たまに出会うと一瞬でその頃に戻ります。

大学院に進学して、高橋公子先生の研究室に所属して、これはこれで、修行時代というべきか、結構よく怒られました。「三歩下がって師の影を踏まず」という感じです。先生が地方の学会に出席するとなれば、宿を手配し、先生が視察する場所にアポイントを取り、当日の朝は先生のためにタクシーを用意して現地に案内するとか、そうした修行を2年間したので、世の中に出て「大変だ」と思うことはほとんどありませんでした(笑)。もちろん、設計者になるためのいろいろなことも日々躾けられました。

設計事務所に入って、最初に行った現場は国際科学技術博覧会だったのですが、男の人がずらっと並ぶなか、先生のお使いとして指示を伝えると、年配の男性がぼそっとつぶやいたんです。「おねえちゃんはいいよな。紙と鉛筆で食ってんだからさ」と。この人たちとどうやって仕事をしていくのだろうと茫然とした覚えがあります。最近は、建築の現場に行っても、もう誰も「おねえちゃん」とは言っていくれませんが(笑)。

私の学生時代は就職をしない人はいなかったけれど、大きな建設会社に就職しても、正社員ではなく準社員のような立場がほとんどでした。入社してから試験を受けて総合職に就いた人はたくさんいるけれど、入社するときには極めてはっきりとした差別がありました。男女雇用機会均等法が制定される前の時代ですから。

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今の学生が使うツールはかなり変わりました。フォームファウンディング、すなわちどういう形を作ろうか、と考えるときに使うIT技術は向上し、いろいろな形を自由に創造できます。

一方で「今の若い人は大変だな」と思うこともあります。私たちが社会に出た時代は「早く、大きく、たくさん造る」時代でしたから、独立して設計事務所を立ち上げることを普通に夢みられる時代でした。でも今は低成長の時代ですから、独自の価値観を作らなければならない時代だとも思います。「サスティナビリティ」とか「気候変動」なんて言葉がなかった私たちの時代とは、違う価値観で仕事をしなければなりません。

建築という仕事にはクリエイティブな側面はもちろんありますが、ほとんどは揉めごとに対処する仕事です。1つ建物が建てば、必ず日陰ができて、必ず眺望をディスターブします。それでもこの建物ができてもいいと、周囲に思ってもらわなければならない。そのような調整の仕事でもあります。

建築の世界は、壊して、造って、また壊して造る、サスティナビリティとは対極にあった時代から、新しい価値を創造する時代に入りました。それは大変な時代ですが、新しい価値観を創り、発見することを楽しいと思える学生を育てなければならないと感じています。


次号は桜楓会 理事長 高野晴代先生のアオハルプレイバックをご紹介!

<篠原聡子先生から高野晴代先生へ>

高野先生とは、先生が文学部長をされていた時に、私も家政学・人間生活学研究科委員長で、理事を務めていて、親しくお話をするようになりました。キャンパスの統合などを含めて難題が山積する中、よく愚痴を聞いていただき、先生の研究室で、チョコレートと紅茶をご馳走になったのは忘れられない素敵な思い出です。